お知らせ

【手のひらの授業 第9講】

2020年5月23日

隔てるもの・つなげるもの

GW期間の外出自粛が奏功したのか、ここにきて新型コロナ感染症の勢いが翳り、いよいよ首都圏でも学校再開に向けてのカウントダウンが始まっています。思えばこの臨時休校措置が始まったのは、高校卒業式を間近に控えた3月2日でした。当初は春休みの終わりで解除される予定だった休校措置は、コロナウィルス感染症の流行拡大につれて、GW明けまで、そして5月末までと解除時期が延期され、気がつけば実に3ヶ月という空前の規模になりました。世界的に見ても、コロナウィルス感染症によって190もの国で学校を休校にする措置が取られ、最も多い時期で16億人近い子どもたちが学校に通えないという事態に至りました。学びの喜びとは、仲間を通して得られるもの、個性は多様な人間関係のなかで磨かれるもの、そうであるなら、この3ヶ月、16億人もの若者が失ったものの大きさは計り知れません。

「せめて15分でも、手のひらのスマホを見ながら桐朋での学びに思いをはせる時間を持ってくれたら」そんな思いから3月9日、学校HPに最初の『手のひらの授業』を寄稿しました。授業とは名ばかりの、取るに足らぬ内容ではあったと思いますが、以来およそ10日に一度のペースで内容を更新し、今書いているこの原稿で第9講、おそらく最終講となるでしょう。

4月3日、星野源さんが自身のインスタグラムで公開した「うちで踊ろう」に、多くのミュージシャンが共鳴し、数々のコラボレーションが話題となりました。私は、この現象を取り上げた4月26日の朝日新聞文化文芸欄の記事が印象に残っています。「サビの部分はほぼ、ミ・ソ・ラ・シの四音のみで歌われる。隣り合った音同士が互いに手を差し出し、触れ合うかのように親密に行ったり来たり。過剰なアクセントも跳躍もなく、温かく寄り添う手触りだけがほんのり残る。ベースやハーモニーの動きも、実に謙虚で繊細。いたずらに共感や感動をあおらず、心地よく流れて消えてゆく。柔らかな余白のある音楽だ。」編集委員の吉田純子氏の手になるこの文章は、読み手の記憶の中にある星野さんの演奏を見事に再生して見せています。吉田さんはこう続けます。「思えば、この“連なる”ということそのものが、そもそも日本の文化的伝統である。連歌・連詩・連句。いずれも前の人が詠んだものを自由な想像の源とし、ことばを即興的に重ねていく遊びだ。自分一人で完結せず、無尽蔵の発想をのみこみながら広がっていく世界を皆で味わい、慈しむ。この感性は、無駄を排除して“完成”を志す西洋芸術のあり方とは対照的な、独自の豊かさをたたえている。」思いがけずこうした文章に触れるとき、日常に新聞があることの有難さに改めて気付かされます。

朝日新聞の一面に毎朝掲載される、哲学者・鷲田清一さんによる『折々のことば』は、2015年4月以来、これまでに1,800を超える印象的な「ことば」を世の中に発信し続けて来ました。3月7日、第1,750回目の『折々…』が取り上げたのは、なんと人気漫才コンビ「笑い飯」の哲夫さんのこんな言葉でした。「ここからここはこうって分けるとそこに垣根をイメージしてしまいますが、そこは“縁側”って思ったらええんやって僕は思います。」縁側は、屋外と屋内の境界に成り立つ、言わば“入り会い”。そこでは、お互いの「際」が触れ合い、縁が生じるのです。自分の内だけで完結させるのではなく、垣根を取り払った縁側に自らの発想を置くことで、外の世界に連なり、共鳴していったのが「うちで踊ろう」のムーヴメントだったのでしょう。

インドには、読者数6,000万人を超える『ダイニク・ジャグラン』という新聞があります。そう聞いて「あれっ?」と思う人も多いでしょう。世界新聞協会による2019年の新聞発行部数世界ランキングを確認すれば、近年発行部数に翳りが見られるとはいえ依然として日本の読売新聞が811万部という世界一の発行部数を誇っています。次いで朝日新聞の560万部が続き、ジャグラン紙の発行部数は341万部で世界5位となっています。にもかかわらず、なぜジャグラン紙の読者数がそんなに多いのか。実はインド社会では、新聞の回し読みによって情報を得ている市民が多いのです。飛行機の座席ポケットに入れた新聞を誰かが勝手に持って行ったり、読んでいる人の後ろから盗み読みすることも当たり前です。ジャグラン紙の一部を、20人以上の人が読んでいれば、読者数は6,000万人を超すわけです。かつて日本の通勤電車には、盗み読みされないように小さく折り畳んだ新聞を巧みに読み進めるサラリーマンの姿が多く見られました。今は、手のひらの中で気になる見出しだけを取り出しています。読むべき記事を、実は見逃していることも多いでしょう。

5月13日に立命館大学専門研究員の百木漠さんが朝日新聞に寄稿した一文も、是非みなさんに紹介したい内容でした。新型コロナウィルス感染症との闘いのなかで、多くの企業は在宅勤務を進め、大学は前期の授業を全てオンラインで行うことを決めました。休校が長期化するなかで、桐朋も、Zoomやロイロノートを用いたオンライン授業を導入しました。さまざまな混乱と戸惑いが生じる一方で、意外にもオンラインで充分に仕事や授業が成り立つのではないか、今後もこの方が手っ取り早くていいのではないか、といった声も世の中では聞かれます。百木さんは、その“手っ取り早い”コミュニケーションからこぼれ落ちるものについて指摘しています。百木さんの記事を引用しましょう。

「哲学者・社会思想家のハンナ・アーレントは、『人間の条件』のなかで、人々が複数的な意見を交わすことを“活動”と呼び、“公共性”の要に据えた。異なる意見を持つ人々が同じ空間に集い、共通の問題について議論する。それを通じて、同じ世界でどのように共生していくかを考える。それこそが政治であり、公共性の実現だと彼女は考えた。その際、物理的空間を共有することが、“活動”のための重要な条件になる、とも付け加えている。」彼女が注目するのは、人々が話し合いのために囲む“テーブル”の存在です。同じテーブルを囲んで別々の席につくとき、私たちはテーブルを介して互いに結びつきながら、異なる視点を保持し、かつ一定の距離を保っていることになります。テーブルと言う介在物を通じて、共通の関心事について異なる意見を交わし合うことこそが、公共性=複数性の実現であると彼女は考えました。インターネットは良くも悪くも、人々を直接的に結びつけます。テーブルという介在物なしに、私たちは他者と直面することになります。百木さんは、「公的空間と私的空間の境目がなくなるなかで、他者との適切な距離を保ちながら、問題関心を共有し、かつ複数性を保った議論を重ねていくことは容易ではない。」と述べ、「人々を結びつけつつ分離する介在物」(テーブル)の重要性を指摘するのです。

百木さんは、コロナ時代に想起せざるを得ないもう一人の政治思想家として、アーレントと同世代のカール・シュミットを挙げます。シュミットは『政治神学』のなかで「例外状態において、決断を下す者こそが主権者である。」という有名なテーゼを唱え、1930年代に政権を握ったナチスを支持、立憲主義を破壊する全権委任法の成立を正当化しました。世界中で「非常事態」が常態化する可能性も指摘されるなか、各国の指導者が「これは戦争だ」という比喩を用い、国民の一致団結を求めています。これに対し、ドイツのシュタインマイヤー大統領はテレビ演説で「感染症の世界的拡大は戦争ではない。国と国、兵士と兵士が戦っているわけでもない。私たちの人間性が試されている。」と語りました。その通り、今、私たちが直面している試練は、戦争ではありません。「強大な国家権力(垂直性)に対して、無媒介なオンラインのつながり(水平性)は十分な歯止めになりうるだろうか。」百木さんはそう指摘しています。

そんなに堅苦しく考えなくても、オンラインによるつながりは結構便利だし、フランクにやりとりできる点はむしろ対面の会議よりも優れているのではないか、と考える人も少なからずいるでしょう。私自身、この三ヶ月の間に何度もオンライン会議システムを利用し、その有効性も理解しています。しかしそれは、縁側で茶飲み話をするような心地よさとは異質のものだと感じています。例えば「ミュート機能」。オンライン会議では、発言者以外は基本的にミュートの状態にあるのが普通です。会議の出席者は、自宅の様子をバーチャル背景で隠すのと同じように、絶対に共有できない私的感情をいくらでもミュートで隠すことができます。「ミュート機能」は、日常の会議や会話のシーンでは絶対にありえない機能です。「在宅勤務でオンライン会議に参加している父親の様子を垣間見て子どもがショックを受けた」といった、笑えないブラックジョークがテレビで語られていました。そこまで悪く取らなくても、例えば通常の会議であれば、発言者のじゃまにならない程度の小声で、周囲の仲間と交わす会話がけっこう大事だったりします。提案された原案に欠けている点が、仲間と話すことで見えてくるなんてこともあります。授業でも、そういうことがありますね。ミュート機能は、もしかしたらそういう会議の深まりを妨げているかも知れません。

もう一つ、決定的なことは、視線の問題です。オンライン会議で発言する時、自分に向けられている全員の視線をどうしても意識してしまいます。もちろん、聞き手はそこまで意識して発言者を凝視しているわけではないでしょう。しかし、聞き手の意識とは別に、発言者にとってパソコンの画面いっぱいに並んだ視線は、ある種の抑制力を感じさせるものです。そう感じる一方で、私自身も見方を変えれば、あの視線の一端に参加して、誰かを圧迫しているかも知れません。以前手に取った、東京大学大学院教授・亀田達也さんの岩波新書『モラルの起源』に、こんな話が紹介されていました。一定金額を自主的に回収ボックスに納めれば自由にコーヒーを飲むことができるシステムが、最近は日本の多くの職場でも見られるようですが、ただ乗りをする人が多くなればこのシステムは崩壊します。かと言って、代金回収のための見張りを用意するのは、コストの上で非現実的です。動物行動学者のベイトソンは、実験を通して、コーヒールームに人間の目の写真を貼っておくだけで、ルール違反がほぼ解消されるということを突き止めました。誰かに自分の行動が暴かれるかも知れないと考えるだけで、人間の行動は抑制されるというのです。無数の他者の視線が何かを抑制するとしたら、それはオンライン上のコミュニケーションにどのような影響を及ぼすでしょうか。

私はここで、私たちが取り組んでいるオンライン授業にそもそも問題があるという指摘をしているわけではありません。学校というコミュニティは、授業はもちろんのこと、クラスや学年の活動、クラブ活動など様々な機会を通じて、幾度となくつながりを繰り返し、構成員の間に深い相互理解をつくり出しています。オンライン上のコミュニケーションであっても、そうした人間関係を前提としてなされるものは、そう心配はありません。しかし、みなさんもよく知っている通り、世の中では、ネット上の人と人とのつながりが思わぬ方向にねじれてしまったり、取り返しのつかない亀裂を生むことも多々あります。「手っ取り早い」コミュニケーションが、常に危うさを持ち合わせていることも、私たちは意識しておかなければならないでしょう。

特別教室棟に寄り添う柘榴の木が、印象的な朱色の花を咲かせています。私はあの朱色の花を見ると、「桐朋祭の季節が来たな」と感じます。一昨年の桐朋祭に、桐朋38期OBの節丸雅矛さんが講演者として来校されました。節丸さんはニッポン放送編成局編成部長として、ビートたけしさんや松任谷由実さん、福山雅治さんなど、著名なアーティストと様々な仕事をされています。講演会の最後に、会場から「個性の強いアーティストの方々と仕事をされながら、意見が対立した時に、どのような点を心がけていますか?」という質問が飛びました。その時、節丸さんはこう答えました。「対立するお互いの意見にしっかりと耳を傾けた上で、対立を超える新しい何かを提案することです。」対面であれオンラインであれ、対話というものの本来あるべき姿が、実に簡潔な言葉で語られています。