お知らせ

【校長・手のひらの授業 第5講】

2020年4月14日

※ 新型コロナウイルス感染症の蔓延によって、当初は春休みに入るまでとしていた臨時休校の措置を、5月の連休明けまで延長せざるをえなくなりました。この「手のひらの授業」も3月25日の第4回をもって最終講と考えていましたが、改めて再開します。

清純なるもの

一時の桜の華やぎが過ぎて、みやばやしは今、浅緑の薄絹を日毎に重ねる若葉の季節を迎えました。新型コロナウイルス感染症の蔓延によって、首都圏には緊急事態宣言が発令されていますが、鳥たちはそんな禁令が届かない高い梢で、恋のさえずりを賑やかに交わしています。様々な不安に苛まれる毎日ではありますが、若葉の梢を見上げる時だけは、忘れかけていた春の喜びを思い出します。

万葉集巻八の巻頭を飾る有名な春の歌があります。「いはばしる 垂水の上の早蕨の 萌えいづる 春になりにけるかも」これは天智天皇の第7皇子である志貴皇子の作品。普通に読めば、「雪解け水が流れ落ちる滝の横にある岩で、蕨の小さな芽が顔を出している、そんなみずみずしい春がやってきたなあ。」といった意味になります。春の清冽な水の音が聞こえて来そうな作品ですが、おそらく志貴皇子はこの情景を直接に見てはいないのではないかと想像します。水滴を含んで光る早蕨を頭の中で思い描きながら、ただ「あ~、春が来たな」と歌っているのです。小難しい技巧を加えるのではなく、ストレートに春の瑞々しさを歌う、これがまさに万葉集の魅力です。

Mr.Childrenのヒット曲「HANABI」と言えば、2008年に1st seasonが放映された医療ドラマ『コード・ブルー』の主題歌ですが、その一節に、「滞らないように/揺れて流れて/透き通ってく水のような/心であれたら」という言葉があります。この曲は、もしかしたら最初にこのフレーズから出来たのではないかと思わせるような、印象的なキラーフレーズです。

私はこの曲に強い想い入れがあります。というのも、かつて20年以上にわたって担当してきた高三倫理の授業で、私はまったく同じような言葉を板書してきたからです。仏教伝来以前の古代日本人にとって、例えば古事記・日本書紀といった文献の中で、ツミとはいかなる概念として語られていたか。それは農耕村落社会としての集団秩序に背く行為であり、例えばスサノオがアマテラスに反抗して田の畔を壊し、機織を妨害するといった行為がツミの典型です。またケガレ(ケカレ)とはケがカレル、つまり病を患ったり怪我をしたり、あるいは人の死に関わることによって日常生活の活力が失われる状態を言います。ところが、彼らにとってツミやケガレは、言わば一時的に身に降りかかったもので、ミソギという再生儀礼によって、無垢な状態に戻るとされます。ミソギは、濁りのない清浄な水を用いて洗い流すことであり、形代に身のケカレを移して文字通り水に流す流し雛は、ミソギの神事に由来します。人間性は本来、純粋で清浄なものであり、一時的にツミやケガレを被っても、清冽な水によってもともとの人間性を再生することができるとする古代日本人の人間観は、人生の全てを苦しみと見る仏教的な現世否定とも、人間性に根源的に備わる原罪を主張するキリスト教とも違う、言わば楽天的な人間観として主張されています。

同時に、谷川の流れのように濁りがなく、まったく純粋に澄み切った誠実さ、二心のない無私の心のことを「清き明らけき心=清明心」と呼び、これは古代日本人にとっては人間のあり方の理想、道徳規範であると同時に、万葉集で詠われた美意識でありました。冒頭の「いはばしる 垂水の上の~」の歌にも、淀みを作らない清流の透明感、瑞々しさが詠みこまれています。万葉集では、この歌の他にも、澄み渡った月の光であるとか、真っ白な砂浜であるとか、清明心に通じるモティーフが盛んに詠まれています。

戦前から戦後にかけて活躍した、中井正一という思想家がいます。京都大学でカントの『判断力批判』を研究して美学の領域に関わり、のちに中井美学とも呼ばれる業績を残しました。昭和8年の京大滝川事件に際しては官憲による思想弾圧に抗議する運動を展開して、4年後には治安維持法違反で検挙された経験を持っています。戦後は国立国会図書館開設時の副館長として、図書館を通じた文化復興に尽力しました。

彼は戦前・戦後を通じて、国粋主義的プロパガンダとは全く異なる学問的地平に立ち、一貫して日本的なるものの美を見つめ続けた思想家でした。例えば中井は、唐の顔真卿の書が、四角な空間を厳然と占めて凛と張った格の中に、きちんと静止しているのに対して、日本の仮名書はもともとそれから出発したにもかかわらず、水手書き・葦手書きという名が示すように、流動してやまぬ水の流れのごとく、さらさらと跡形も無く流れ去っていくものであると主張します。中井はこう述べています。「清新を求め、清く新しく、滞るものを嫌う心、軽く、柔らかく、浅い川を流るる水のごときものが、日本の心として、日本の芸術の中に独特なかたちをもって、出来上がってきたのであります。」

さらに彼は、伊勢神宮に続く式年遷宮、20年ごとに新しい建物を作って神体を移す、あの営みを取り上げて次のように言います。「アテネのアクロポリスも崩れ去り、エジプトのティスの神殿も消え去り、インダス、インカの神殿も原型をただ想像にまかせるのにすぎないのに対して、この21年目ごとに自ら滅することを堅く守り続けた日本の神殿のみ、木の香りもあやに、今まさに、千年の時の中に、その原型を保ちつづけているのであります。清純であることは、新しく生きていることであります。この清純を求めることを千年の間変えなかったということを、私たちは、今さらのごとくもう一度、見つめてみねばならないのであります。」中井の提唱する美学によれば、生きているという「しるし」、香り高い、瑞々しい、さかんなるもの、ひきしまったもの、滞らないもの、常に自分自身から抜け出して発展していくものを、古代日本人は「うるはしきもの」と考えたのでした。

もちろん私はここで、戦前の学者の話を持ち出して、ことさらに復古的な芸術的ナショナリズムを展開するつもりはありません。そうではなくて、私は、現代の若者が口ずさむ音楽と、古代日本人の美意識の中に通じるものがあるならば、それは私たちにとって、普遍的な美意識と呼べるものではないか、と考えているのです。私は、永遠なるものというのは何一つ変わらず、動かずにいるものではなく、絶えず新しいものを生み出し続けることでその精神を保つものだと考えます。人間は、思わぬ事態に直面して心が攪拌された時、一時的に視界が遮られてどうしてよいかわからなくなります。そんな時、じっと動かずにいれば次第に心は澄んでくるかも知れません。しかしそれは、心の底部に厚い沈殿物を積もらせて動きがとれない状況でもあります。それよりは、心の中に清冽な水を間断なく流し込むこと、言い換えれば、清新なる価値を次々に創出することこそ、活力あるあり方と言えるのではないでしょうか。

「何という年明けだろう。100日余り前に、米国の繁栄の象徴ウォール街を襲った激震は、同じニューヨークの世界貿易センタービルを崩落させた9.11テロをしのぐ破壊力で、地球を揺さぶり続ける。お金の流れが滞って、消費も投資も貿易も縮む。経験したことのない経済の急降下。主要国の株は半値になった。先行きへの心配が企業や消費者の心理を凍らせ、デフレ不況へのおののきが世界に広がる。…」

これは、2008年秋のいわゆるリーマン・ショックによる大きな社会不安の中で迎えた2009年元旦の朝日新聞社説の文章です。この、暗く沈んだ年明けの1月9日夜、NHKのニュース番組に出演した作家の大江健三郎さんの言葉が、強く印象に残っています。「正月の新聞を見るにつけ、つくづく暗い時代であると感じる。今から100年前の日本の状況(日清・日露戦争後の世相)に似ていると感じる。1910年に、石川啄木は『時代閉塞の現状』という一文の中で、その時代を憂いた。そうした時代に、若者が内訌(うちわもめ)的・自滅的になっていくことに警鐘を鳴らした。自己閉塞の状況とは、他人を思い遣る想像力を無くした状況である。そもそも、派遣切りにあって住む場所を無くした人々の姿を、少し前には誰も想像しなかった。政治家も、経営者も、マスコミも、私たち誰もが。しかし、元気を失ってはいけない。かつてパレスチナ出身の歴史思想家サイードは、絶望的なパレスチナ問題について、『人間のやっていることなのだから、将来的に解決しないはずはない。』と述べた。これは、理由のない楽観論ではない。Will(意志)の力による楽観主義である。悪い状況であっても決して諦めないという意志の力である。」

私たちは、うまく行かない事に直面すると、どうしても俯いて自分を閉じてしまいがちです。自己閉塞の状況に陥って他者への想像力を失い、ただ独り言のように悲観的な観測を述べているだけでは状況を好転させる手がかりすら得られません。大切なのは、必ず打開してゆくのだという確かなWill(意志)を持って、自らを開き、他者と向かい合うこと、そうした姿勢こそ、自立した個人の姿であると大江氏は述べているのです。

新型コロナウイルス感染症がもたらす経済的打撃は、しばしば「リーマン以上」と形容されますが、心の中に清純なる春の息吹を呼び込みながら、失いかけた活力をもう一度みなぎらせて、この試練に立ち向かっていきたいものです。