お知らせ

【校長・手のひらの授業 最終講】

2020年3月25日

桜のもとで

今年も、国立の桜が満開の時を迎えました。国立駅南口からまっすぐ南へのびる大学通りには、約200本の桜が植えられています。多摩障害者スポーツセンターの交差点で大学通りと交差するさくら通りにも、やはり200本の桜が植えられており、この時期には見事な景観をつくり出します。

大学通りに最初に桜が植樹されたのは1934年から1935年にかけてのことですから、それからもう86年が経過しています。長い年月を経て老木となった桜を守り、国立市民の誇りである美しい桜並木の景観を次代に残すために、大谷和彦さんらが中心となって、市民と国立市の二人三脚によるボランティア組織「くにたち桜守」が設立されたのは2000年のことでした。中学生・高校生のみなさんの中にも、小学校の頃にこの活動に参加したという人がいることでしょう。桐朋学園小学校を含め、国立市内の小学校・中学校の授業にも取り入れられ、毎年、延べ3,000名近い児童・生徒が桜守の活動に参加しています。

桜守という言葉は、今では一般的になりましたが、この言葉が広く用いられるようになったきっかけは、1969年に刊行された水上勉さんの『櫻守』という小説でした。この小説にはモデルがあります。明治20年、大阪堂島の大地主の家に生まれた笹部新太郎という人です。この人の最初の大仕事は、「通り抜け」の名で親しまれる大阪造幣局内の桜並木の整備です。そして、最大の仕事が、1960年、岐阜県の御母衣ダム建設によって湖底に沈む運命にあった二本の樹齢400年に達するエドヒガンザクラの移植でした。笹部は、成功を信じる人がほとんどいなかった難事業を成功させ、二本の桜は今日もなお、荘川桜として多くの人々の目を楽しませています。

その、笹部新太郎さんの言葉を一つ紹介しましょう。「人間と同じように、いい桜ほど、肌に傷がついている。傷で寿命を縮めるのも桜なら、傷で大きく育つのも桜の面白さだ。」長生きの立派な桜の木ほど、幹の傷は多いというのです。人間もそれと同じで、多くの悩み事や失敗を重ねながら、長い人生を生きていくものです。傷ついて枯れてしまう桜もあるなかで、しかし、そうした傷を克服し、明日を生きるための糧とすることによって、人生を充実させることもできるのだ、ということですね。さらに言えば、人生における失敗や挫折という出来事には、幸せとか不幸せとか、運が良いとか悪いとか、そういう性格がもともと備わっているわけではなく、その事をどのようにとらえ、どのように活かすかという人間の側の受け止め方によって、結果的にそれが幸せであったか不幸せであったかの性格付けがなされるのでしょう。何か、力強く励まされるような、良い言葉だと思います。

平安末期の歌人西行は、誰よりも深く桜に魅入られた人物として知られています。藤原秀郷の8世の孫にあたり、代々衛府に仕える武士の家柄に生まれた佐藤義清(のりきよ)が西行の俗名。文武ともに優れた若者で、鳥羽院の北面武士としても奉仕していた義清は1140年、23歳で北面を辞し、京都西山の勝持寺で出家して円位を名乗り、のちに西行と称するようになります。西行の出家の理由には諸説あり、『西行物語絵巻』には親しい友人の急死が動機であったと記されていますが、白洲正子や瀬戸内寂聴は鳥羽帝の中宮であった藤原璋子(待賢門院)への想いを理由に挙げています。勝持寺に庵を結んだ西行が植えた一株の桜を、世の人は“西行桜”と呼び、勝持寺は“花の寺”としてその名を広く知られるようになりました。

世阿弥の作とされる能の一つに、『西行桜』という作品があります。西行の庵に咲く桜の評判を聞き、都人たちが花見に訪れます。ひとり閑かに花を愛でていた西行は、静寂が乱されることを不本意に思いつつも、はるばるやってきた一行を思いやり、入庵を許します。その時西行はその心のうちを「花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎にはありける」(美しさゆえに多くの人をひきつけてしまうことだけが、惜しいかな桜の罪なところだ)という歌に詠みます。その夜、西行の夢に桜の精である老翁があらわれ、「心も情もなくただ咲いている桜に、浮世の咎はないはずだ。」と西行を問いただすのです。「時を違えず咲く花こそが仏法の表れなのだ。訪れる人に心を乱され、それを煩わしく思うのも未熟な人の心ゆえではないか。」そう西行を諭しながら、老翁は春爛漫の洛中洛外の情景を讃え、花のいのちの輝きを謳いながら舞の袖をひるがえすのでした。散り積もる花びらに包まれながら、西行の夢は覚めていきます。

さて、高校生の皆さんは今年、17歳から18歳になろうかと思います。この時期に一つの大きな危機があることを最初に見抜いたのは、あるいは世阿弥だったかも知れません。シェークスピアに先立つことちょうど200年、青年将軍足利義満の心をとらえた世阿弥は、舞台人として音楽家として、あるいは作家・作曲家・理論家・演出家として超一流の才能を発揮しました。彼は40歳の頃に、有名な芸術論『風姿花伝』を書いています。この第一章「風姿花伝年来稽古条々」には、年齢に応じた稽古の仕方が示されていますが、これは世阿弥の教育論・人生論としてもよく紹介される部分です。

17歳から18歳の時期について、世阿弥は次のように言います。「まず声変わりぬれば、第一の花失せたり。」世阿弥は、12~13歳の少年の能は、こどもらしい稚児姿の美しさといい声の良さといい、それだけで幽玄を体現するものがある、としながら、しかしそれは年齢によって現れ、年齢が過ぎれば散っていく、一時の花にすぎないと言います。それが証拠に、17歳頃になると声変わりという身体上の変化もあり、体つきも腰が高くなって子どもらしい愛らしさを失い、背だけが伸びて重心の定まらない、そんな場面に直面します。言って見れば、能学者としての第一の難関を迎えることになると言うのです。この逆境にどう立ち向かうべきか。世阿弥は、「たとえ人が笑おうとも、そんなことを気にせず、自分の限界の中で無理をせずに声を出して、稽古せよ」と述べています。そしてあの有名な言葉を書き残しています。「心中には、願力を起して一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。」心の中に願を立て、ここが人生の境目であるという認識に立って諦めずに努力を続けることが大切であり、そこで投げ出してしまっては、その人の能はその時点で終わると言うのです。

世阿弥と言えば、「初心忘るべからず」という言葉もしばしば引用されます。この言葉は、世の中では「最初の頃の純粋な思いや新鮮な感動をわすれるな」といった意味で解釈されることが多いのですが、世阿弥が著書『花鏡』の中で主張するのは、「稽古の進歩を計る指標として、最初の未熟な芸もとっておけ。」という意味なのです。初心とは決して良いものではなく、むしろ未熟で失敗した経験のことなのです。そうした試練や失敗のない者は大成しない。若いときの未熟ゆえの失敗を忘れず糧とし、自らを戒め続けよ、と世阿弥は言っているのです。

再び西行に話を戻しましょう。彼は運命の女性であった待賢門院が世を去った後、京都を離れて高野山に庵を結び、春めいてくれば毎年のように桜を求めて吉野山中に分け入りました。吉野山は山岳修行の霊地であり、西行にとってそれは単なる花見ではなく、命がけの修行だったのです。「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねん」彼は、自分が歩いた道に必ず道標をつけ、年ごとに道を変えて、初めての道を辿ったといいます。自分なりの決意をもって新学期の生活を始める時にこそ、手本としたいエピソードですね。